※2024年1月1日に発生した石川県能登地方を震源とする地震に触れる描写があります
私は私として、何を表明するのか? そもそも表明ってしなきゃダメなのかな?
表明
自分の考え・決意などを、はっきりあらわし示すこと。
毎日、はんぶん癖みたいにSNSのアイコンをタップしてしまうこの指を時々うらめしく思うよ。久々のブログ更新だけど、あまり深く考えすぎずに今思うことをそのままに綴るよう努めてみるね。(読み返すとぜんぶを書き直したくなっちゃうから、後から手を加えてない。もしかしたら誤字、脱字あるかもだけれど。それも生っぽくていいかもね)
もともと低迷気味だった、そのままのメンタル状態で年末を過ごしていたし、だから年が変わったからって、突然にエナジーがみなぎるなんてことあるわけないって最初から気づいてた。でも、大晦日と元旦を隔てる透明なカーテンのようなものの存在も心のどこかでは期待していたんだろうな。ひょいとめくれば晴れやかな空が、カーテンの向こうにはそんな窓があるんじゃないかって。でもやっぱりそんなことはなくて。ぐちゃっと丸められたモヤモヤを抱えながら、存在しない“時の仕切り線”をゆっくりと通過した。
2024年の1月1日は多くの人が心を痛めたと思う。能登半島での大きな大きな地震。その時の私はというと、ダイニングテーブルの端っこ、エアコンでコントロールされたぬくぬくの室温の中、読みかけの本を広げていた。「せっかくのお正月だから」という決まり文句を吐きながら、とっておきの甘味を頬張り、お茶をすすっていた。夕暮れ時、カップのお茶が波打っていることに気づくと、たちまち、観葉植物もカーテンもダイニングテーブルも私の身体も大きく揺れ始めた。テレビやSNSは地震の発生を知らせるニュースで溢れた。
翌日以降からは、新年の挨拶をする有名人のSNSにはお悔やみの言葉が必ずと言っていいほど記された。その言葉たちを目にするたびに、被害に遭われた方々を想い胸がしくしくと痛んだし、同時にいつもの無力感にさいなまれていた。(今この瞬間、もし不安やそれに似た感情に包まれている人がいるとしたら、右手を胸に、左手をお腹にそっとあてて、深く呼吸をしてみて。内側へと意識を集中させると、鼓動や上下するお腹の膨らみにもしかしたら安心するかもしれない)
ずっと楽しみにしていた年明け最初の予定は1月10日に開かれた、とある読書会。以前から愛聴しているPodcast番組「Call If You Need Me」から生まれた同名のzineをみんなで囲んでお話しするリーディングパーティだ。(番組もzineも最高なのでぜひチェックしてみて!)会場は、選書のセンスもショップの内装も店主さんもスーパーキュートな「OH!MY BOOKS」という本屋さん。念願かなっての初来店。気になるトークの中身はそれはもう色々、様々、ぎゅぎゅっとたくさんで、ここに全てを書き記すことはとてもじゃないけれどできないな。確かなのは、脳みそがスパークしっぱなしの濃密なひとときだったということ。
そこで積み上げた膨大な記憶の中から、今特にここに残しておきたいことを選んで綴ってみようと思う。願わくば、同じように苦しんでいる誰かのもとに届いたらいいな。そんな希望も込めて。(そう思って、イベント後に殴り書きしたメモを見返してみているんだけれど、文字に勢いがあって、じぶんでも解読不能な部分があってちょっとおかしい)
年始の震災、その翌日の飛行機の事故、パレスチナのこと、そのほか、星の数くらいいっぱい、いっぱいある考えること、心を寄せること。あの日、読書会に集った20数名はそれぞれに心を痛めたり、不安ややるせなさや悲しみとかを抱えたりしながら“そこ”に居たと思う。そして、おそらくそのほとんどの人が日々インターネットに触れていて、SNSもやっているかもしれなくて、オンライン、オフラインを問わず常に情報の発信者であり、受け取り手でもあって。会の最中も、「じぶんの意見を言わなきゃ」って思っていた人がもしかしたら居るかもしれない。(ここで、ちゃんと触れておかなきゃなのは、リーディングパーティは誰もがそのまま好きなようにそこに居ていいよっていう、安らぎと優しさが流れる空間だったってこと)
私たちがある事柄に出会った時、目の前に問題と言われるようなものが立ちはだかった時、「それで、あなたはどうするの? 何を思い、どう考え、表明するの?」と名もなき誰かが問いかけてくるなんてこと、ないかな。
「今日より明日が良くなりますように。誰かのためになりたくって、優しくしたくって、私がここに存在することでどこかの誰かの苦しみや悲しみが減らせるならこんなに嬉しいことはない」と私は思っていて(嘘じゃないよ)。そしてその思いの延長で、常に私は“ある問題”について「私はこう考えます」と表明しなくちゃいけないんだって思ってきた。しかもその表明は、“正しさ”を追いかけてたどり着いた“完璧そうな”ものじゃなきゃって。
「沈黙は加担だ」と言う人がいる。私も本当にその通りだなって思っているから、署名をしたり、ハッシュタグ・アクティビズムに参加したり、色んな人の話に耳を傾けるよう努めて、本を読み、日頃からチェックしているメディアや尊敬するアクティビストの意見を探したりする。そうやって“じぶんの意見”を編み上げていく。その一方で、知れば知るほどに、知らないことの多さに驚き、無知だったじぶんを恥ずかしく思ったり、落胆し不安になったりする。
わんわんと頭に響く「それで、あなたはどうなのよ? 表明してよ」という問いかけと、じぶんの発言で傷つく人がいたらどうしよう、“間違ったら”どうしようという思考に挟まれて、身動きがとれなくなっちゃうことがある。
私(たち)が行動することで変えていくんだという意気込み。うう、でも怖いな。そもそも、考える気力もなければ、メンタルバランスも崩れてる。でも、でも、沈黙は加担と一緒だよね——。永遠に続くループ。
誰もが発信者であるという事実は、私にとっては恐怖で喜びであり、希望で絶望感でもある。あの日から10日余りが経った今、リーディングパーティーに参加した方々の声、「Call If You Need Me」のホストであるBROTHER SUN SISTER MOONの惠愛由さん、Laura day romanceの井上花月さんの言葉を反芻しながら、私が私に言ってあげたいのはね。
今、居る、そこから、できるときに、できることを、粛々と
「もう、なーーーーーんもできない……!!!」って日もあって。目前の何かにすべてのパワーを持っていかれてベッドから抜け出せない日もあって。立派な場所に登壇して研究を発表することもできないし、何万人ものフォロワーが居るあの人みたいに瞬時に大きなうねりは生み出せないよ。デモに行けるだけの体力がまだなくて、SNSで表明することが怖くて仕方なくって、全部を放り投げたくなることも。
だから、今いるここ(ベッドの中、ダイニングテーブルの端っこ、部屋の隅、コーヒースタンド……)から、考えてみる、調べてみる、関心を持ってみる。スマホひとつで、手のひらの中小さなスペースで、しずやかにでも“できることがある”と思えるのはこんなにもありがたい。
表に出ていない、見えていない、明らかになっていないけれど、私なりに、その人なりに考えていて、行動を起こしていることもあるんだよ。ある日は、“沈黙は加担”と言う言葉に重くなりすぎた腰を上げてもらい、パワフルに活動して。ある日は、できないじぶんを責め立てることなく、心のエネルギー補給を。そして、最前でファイティングポーズをとり続けている人たちへの敬意を持ってその手を握り返して、もう一人、また一人と繋いで輪を大きくしていく。そうやって、ともに、一緒に進んでいけたなら。
インフルエンサー(広義での)に対して抱いてしまう身勝手な期待だったり、“ちから”を持つ人の力の使い方だったり、活動を休止できる特権を持っていることだったり、発信することではじまることがあるってこと、異なる意見と触れる機会を得ることの貴重さ、社会貢献の実感など、触れたい事柄はまだまだあるのだけれど。今の私が私にしてあげられることとして、末長く健やかにファイトしていくための秘訣として、じぶんに教えてあげたいと思ったので、ここに残してみました。(前提として記したいのは、発信してくれる人たちへの感謝の気持ち。誰かが表明してくれることで学び、知識を深め、じぶんをかえりみることができているから。だから、できるだけ私もどこかの誰かが情報に触れられるきっかけ作りたいと思うし、そのための"発信"は続けられたらと思う。)
記憶を記録していくこと、今年はもっとできたらいいな。
今、居る、ここから、できるときに、できることを、粛々と
だいじょうぶ、私はあなたの味方だよ。
むすびに今夜のBGMを↓
明日も朝イチでコーヒーを淹れようっと。
それでは、きょうはここまで——
(2024.1.22)