星くずインターセクション

平凡なものを不滅にするってすごくクールだ◝✩

日記を書いた日の日記/愛の痕跡について

以下は、「あなたの目尻の皺は世界を愛する理由/5月15日(木)にMとAと - 星くずインターセクション」を書いた一週間後に綴った文章で、別の媒体に載せたかったもの。ずっと眠ったままだったけれど、今、陽に当ててみようと思う。

 

 

化石に記録されたわたしたちの歴史には、愛の痕跡はどこにもない。地殻の奥ふかく埋もれて見つけられるのを待っている愛などどこにもない。わたしたちの祖先の大腿骨や腕の骨は、彼らの心を物語ってはくれない。彼らの最後の食事がピート層や氷の中からそのままの形で見つかることはあっても、彼らの思いや喜怒哀楽は、どこにも跡をとどめていない。

ー『灯台守の話』/ジャネット・ウィンターソン、岸本佐知子訳/白水社/2007

 

 

わたしはロマンチストなのかもしれない、となんとなく気づいていた。今日だって、習いたてのハンドドリップコーヒーが思ったよりも美味しく仕上がらなかったこと、そんな一杯を傍らに、ラップトップを開いている今というささやかな時間を、愛おしいと思っているのだから。

 

心療内科に通い始めてから一年近くたち、心身の状態はいくらかバランスを取れるようになってきた。いまだに身体が鉛みたいで、感情をなくしたように生きる日もあるけれど、だからこそ、心がわずかに振れるその瞬間を、文章を書きたいというこの衝動をわたしは逃さないでいたかった。

 

静かに続けているブログ(ブログと言っても個人的な日記のようなもので、ドアは開いているけれど、誰も訪れない日もある狭く小さな部屋)を更新しようと決めたのは、一週間ほど前の5月15日(木)に友人たちと過ごしたひとときがあまりにプレシャスだったから。あの日は、朝から夏みたいな太陽光が降り注いで、住宅街のアパートの一室、スパイスたっぷりの異国の料理を囲んだ。美味しい料理には美味しい飲み物をいただきたい。クラフトコーラにドリップコーヒー、青ゆずが香る冷えた緑茶。次から次へとテーブルに並び続ける飲み物を片手に、わたしたちはたくさんの話をした。話しても話しても、もの足りなくて、別れの時間を引き伸ばすように、おかわりをしては話し続けた。多くのことを話したはずなのに、記憶の光に照らされるのはいつも断片で、後に残るのは甘い幸福感と、寂しい味のする名残惜しさ。

 

 

あんなにだいじな記憶なのに、一週間という時を経た今では輪郭がぼやけ、もうおぼろげになっている。懸命に手繰り寄せながらブログに書いていたけれど、キーボードを打つ両手の動きが頭の回転を邪魔してしまい、うまく進まない。もどかしくなったわたしは、iPhoneのボイスメモを起動して、声の記録をとってみることにした。音声記録なら、直感的に記憶を残せるのではないかと思ったからだった。普段、デジタルにせよアナログにせよ、文字の記録に頼っているわたしには少しこそばゆい行為だった。イヤホンを耳につけ、マイクに向かって話し始める。誰に向かって話すわけでもないので、敬語とタメ口が混ざり合って、しどろもどろ。誰も聞いてやしないのだからと心を決めて、小さく発声練習をするみたいに口を開いた。はじめはこう、「試みとして、すごく幸せだった時間のことを声で話すことで記録してみようと思う。忘れたくないことを忘れないようにできたらいいなって、今は思ってる」。それは、誰のものでもない、わたしのあの日の言動、感情、思考、わたしだけの物語。

 

29分54秒。それがあの一日の音声記録になった。ブログとして文字にするにあたって聞き直そうか迷ったけれど、聞きなれない自分の声が耳の奥をざわざわとくすぐるから、恥ずかしくなって結局聞くのをやめてしまった。けれど、声に出すという作業は、そこかしこに散らばった記憶に星座を与えるようなもので、曖昧だったあの日のことがさっきよりもはっきり形を帯びてきた。キーボードを打つ指の動きはスムーズになった。

 

わたしはなぜ、あの日の出来事を記録したいのだろう。忘れたくない、は本当の気持ち。だけど、きっとそれだけじゃない。わたしが残したいのは事象そのものじゃなくて、感情。感情というより、愛情。あの日、わたしと友人たちの間に確かにあったもののこと。目には見えない、手にも触れない、形のないものについて。

 

わたしがブログを書くことで、誰かの人生を変えられるなんて夢にも思っていないけれど、あらゆるものが情報としてあっという間に消費されてしまうこの世界で、決して誰にも消費されてしまわない愛の痕跡(便せんにインクが染み込んだ跡のような)をインターネット上に残しておきたいと思った。

 

ブログを綴るひとときは、宝物を作っている気分だった。幼い頃に、お気に入りのピンクとブルーの折り紙で紙のメダルを作るときみたいなときめき。高鳴る鼓動はキーボードを打つ指のリズムよりも遅かったけれど、わたしのだいじな記憶が文字という形で可視化されていくさまは、まるで透明だった感情たちがみるみる姿を現してくれるようで、わたしは喜びに満ちていった。

 

日記を書くだけなら、自室の本棚の閉ざされたノートに、つらつら連ねるだけでもいいのかもしれない。けれど、わたしがブログとして記録したがるのは、きっと文字こそがわたしのコミュニケーションツールだと考えているからなのだと思う。小学生の時に仲直りしたくて友達に送ったのも手紙だったし、今だって、電話よりテキストメールやLINEの方がうんと落ち着いて素直でいられる。

 

わたしは、わたしと誰かの間に存在する愛という形のないものを形に残す試みをひとりでに、ずっと、ひそかに、行っているのかもしれない。愛情を感じたがりのわたしは、残すことで安心したいのかもしれない。本当のほんとうは、ここに存在する愛について、誰かに気づいてもらいたいとも思っている。でも、こんなの、もっともらしい理由を付け加えているだけなのかもしれない。エゴでいっぱいの自分を少しばかみたいって思うこともある。だけど、ブログを読んだあの子が「りなが言葉にしてくれたから、鮮やかなまま残るわ」ってコメントをくれたときに感じた恍惚感が、わたしを動かし続ける。わたしはやっぱりロマンチストなんだ。開かれた日記(=ブログ)を書いた今日という日についての日記(まさに今書いているこの文章)も、物語みたいにして永遠に語り続けられる。物語にすれば、鉛色の空みたいに鬱々としたこの日々も、ままならない心をセットしたこの身体とも、なんとか共に生きていける。物語にすれば、”わたしが愛した”ことの痕跡は時や場所を越えていけるかもしれない。だから今日もわたしは、宇宙に広がる無数の星屑の一片くらい小さく、かすかに、ささやかに、この世界に愛の痕跡を刻んでいく。

 

 

ひとまず書き終えたブログの画面を閉じた。3338字。それがあの日一日分の文字の記録になった。夜、シャワーを浴びた後にもう一度読み直して、明日の夜に公開設定をすることにしよう。

 

すっかり冷め切ったコーヒーを飲み干すと、白いマグカップにはコーヒーが注がれていた跡がついていた。わたしはその跡をながめながら、あの子が淹れたとびきり美味しいコーヒーの味を思い出していた。

あなたの目尻の皺は世界を愛する理由/5月15日(木)にMとAと

なかなかコーヒーが美味しく淹れられない。今日も、美味しいのか美味しくないのか微妙にわからないコーヒーを脇に置いて、ラップトップを広げている。気温は夏日。この調子では、夏本番になったらこの星ごと溶けてなくなってしまうんじゃないかと本気で心配になる。地球温暖化が進んだこの地球を、もっと本気で心配した方がいいんだろうとも思う。

 

5月15日(木)。友人Mが自宅の前まで車で迎えにきてくれた。その日も夏のような太陽がギラギラと照っていた。ノースリーブ姿で颯爽と現れた彼女はいつもと変わらずまぶしい。なんでこんなに輝いて見えるんだろう。私はそのまぶしさに、時折目をつぶってしまいそうになる。一緒に友人Aの家に遊びに行こう、と彼女が数日前に誘い出してくれていた。以前Aと会った時は、ようやく私が絶不調から抜け出し始めた頃で、まだまだ鬱々とした日々が大半を占める渦中にいた。それは4ヶ月ほど前の出来事だった。たった4ヶ月。その間に明確な転換のきっかけがあったわけではない。ただ、じわりじわりとわたしは日常を取り戻してきていた。自分でも気が付かないうちに。おかえり、わたし。そう思った。わたしの中にこんなにも陽気で幸福な感情があったことすら忘れるところだった。でもそれと同時に、もうあの辛い毎日を迎える前と全く同じ私には戻れないな、とも思った。今思い返してみると、心模様は曇天、ほとんど大雨、しばしば嵐だった。あの日々の中で失ったものはない、と言えば嘘になるかもしれないけれど、冷静に俯瞰して見れば、与えてくれたものの方が多いようにも思える。ある種の喪失感や悲しみを味わう以前と以後で、人は変わるのだろうか。どう変わるのだろうか。変わらないことと、変わったこと、いつか丁寧に並べて眺めてみようか。あの日々を境に、わたしは確実に、愛することを学んだと思う。毎日きちんと出てくる朝食の目玉焼きとか(朝食を食べる元気がなくても家族が必ず用意してくれる)、窓から吹き込む夜風の心地よい冷たさとか、友人の笑った時にできる目尻の可愛い皺とか、そんななんてことなさそうな日常の断片が愛すべきものだったと、ようやく分かったのだということ。

友人たちと遊ぶ時間で作った天使

 

その日、MとAと私はたくさん話した。口がもげるかと思うほど。そのほとんどがくだらなく、取るに足らないことだった気がする。でも、そのぜんぶが奇妙でクールで大事なことだったとも思う。私は話すことが大好きだけれど、相手に伝えようと一生懸命になるあまり、発話中に呼吸が浅くなる癖があるらしい。それを指摘されてから、呼吸を止めないようにゆっくりと言葉を紡ごうと意識するようになった。彼女達は絶対に急かしたり、話を遮ったりしない。その安心感は私にコミュニケーションの楽しさを教えてくれる。彼女達は、私の話す声が好きだと言ってくれた。思春期にコンプレックスだった一重まぶたを褒めてくれたこともある。あなたが発するたった一言で、全然好きになれなかった自分のある部分がとたんにチャームポイントになったりするのだから、それはほとんど魔法なのだと思う。何気ないたった一言が、何気ないものを愛するきっかけになったりする。だから私は何度傷つき絶望しようとも、言葉の力みたいなものをいまだに信じ続けているんだと思う。信じていたいんだと思う。

 

友人達とのこのプレシャスな時間が過ぎゆくことが私はたまらなく惜しい。すべてを記録して一生持ち歩いていたい。Mはプレシャスすぎる時間は、大切すぎて誰とも共有したくないという。私は? このプレシャスタイムを誰かと共有したい? かけがえのない宝物の愛で方は人によって違うんだな。大切だから見せびらかしたくなったり、大切だから誰にも教えたくなかったり、大切だからあなたとだけ共有したくなったり。

 

なぜこんなにも忘れたくないと思ってしまうんだろう。いつかきっと、すべては思い出せなくなってしまうのに。愛おしすぎるんだろう。なくしてしまうには、あまりにもそのひとときを愛しすぎてしまうんだろう。忘れてしまうことが悲しい。だけど、長い時間をかけて膨大な記憶の数々があらゆる要因で淘汰されて、とりわけプレシャスな記憶だけが引き出せるようになること、それはそれで尊い

 

時間をかけて少しずつ、そしてようやく私は、彼女たちに心の扉を開くことができるようになっていた。大事な人には自分のことを知ってほしいと願うのは、私だけではないんじゃないかな。どうかな、わからない。すべてをわかることも、わかってもらうことも無理なのだけれど、自分の弱みみたいな部分を開示してしまいたくなるのは、「それでも、こんな私を愛してくれる?」って問いかけたがっている、私の中のエゴみたいなものが根源なのだろう。結局(なんでもこの言葉でまとめてしまうのは乱暴だけれど)、私自身が私の弱い部分も暗い部分も丸っとひっくるめて、愛してしまいたいんだろう。

 

心の扉を開くまでに時間がかかるの、と私は言った。MとAは、心の扉って何? と聞いた。心に扉や壁があるという概念すら彼女たちにはないのだった。それは私にとって、とてつもないワンダーだった。人によって違う、人それぞれ、そんな一言で丸く収まってしまうものごとはたくさんあるけれど、実感を伴って刻まれるソレは、その場をやり過ごすための大雑把なまとめの言葉でもなんでもなく、あなたと私は違うということを認めた先でようやく出会える”理解”や”思いやり”みたいなものにつながっていくのではないかな。ワンダーが世界を広げてくれる。そのチャンスを見逃さないでいたい。

隣のお家の庭にさくピンクの薔薇たち

私はいまだに友情や恋愛感情や家族愛、それらの違いがわからない。私にとってそれらすべてに愛情という成分が含まれていて、そこに違いを見つけられていないからかもしれない。そもそも違いなんてないのかもしれないし、比べることすらくだらないのかもしれない。関係性なんて、人と人の組み合わせの数の分だけあるし、コミュニケーションのとり方も関係性の数だけあるはず。年齢を重ねるほどに、自分の好きな人が増えていくようにも思うし、人間関係が整理されてシンプルになっていくようにも思う。チグハグに思えるそのどちらもが本当で、だから私は歳をとることが楽しみでもある。

 

なんでも白と黒で分けたがる社会の”やり方”にうんざりする。でも実は、気をつけていないとその波に飲まれそうになる私がいることもまた事実。スマホのスクリーンに映し出される文字たちだけが世界のぜんぶだって勘違いしそうになることもある。それが怖い。私はいつだって怖い。誰かを傷つけているんじゃないか、誰かの足を踏んづけているんじゃないかってことが。戦争や虐殺や差別や偏見を見なかったことにするのは、ある意味では楽な選択なのかもしれないけれど、私はどんなに心が掻き乱されようとも、それらを”ない”ことになんてできない。したくない。知らないまま幸せな日々を送るくらいなら、悲しみと共に生きていたい。悲しみや苦しみを知っている自分でありたい。誰も彼もに一緒に戦ってくれよとまで求めないけれど、戦おうとする人の邪魔をしないでほしいとは思う。

 

うんざりするようなことばっかりのこの星で、それでも世界を愛することを諦めないでいられるのは、あなたがいるからだよ。MやAや家族や友人たち、先輩や後輩、仲間たちがいるからだよ。あなたが笑うたびにできる目尻の皺を見るごとに、私の中の世界を愛する理由がまた一つできるんだよ。その瞬間を失いたくないから、今日も私はファイティングポーズをとって生きていく。時には休むことも忘れないで。

 

私の目尻の皺が誰かの中の世界を愛する理由になったなら、こんなに嬉しいことはないけれど、ちょっとわがまますぎるかな?

 

冷めたコーヒーをすする昼下がりが好き。好きと思える自分が好き。私と世界のコミュニケーションはまだまだ道半ばだけれど、世界宛の私の心の扉はもう、開き始めてるよ。

 

今夜のプレイリストは、喪失と世界を愛することとその先にあるもの、をテーマに選んだ楽曲たち↓

 

おやすみなさい木曜日

それでは、きょうはここまでーー

 

それでもね、わたしは同じ何かを信じていたい/sigur rósのライブと神様のこと

神様がいると信じられる、わたしにとってのそんな音楽がある。神様を信じていないわけではない。でも、神様を信じているわけでもない。わたし自身もわからないんだ、まだ。

 

2月#日(土)、昼下がりに家を出た。今日は一人きりのお出かけなので、いつもよりうんと気楽で、イヤホンと読みかけの本をお供に電車に揺られていた。人と会うのは大好き。でも、いざ会うとなったら、第一声になんて声をかけたらいいのか迷ってしまうから。本当はぎゅっとハグして、会いたかったって伝えたい。でも結局、久しぶり、とか、やっほう、とか、片手をあげて微笑むくらいのさらりとした挨拶を交わしてしまう。誰かと会うときはいつも、あなたへのこの愛の伝え方を試行錯誤している。きっと誰も気づいてはいないよね。

 

栞を挟んだページを広げながら、Spotifyの再生ボタンを押す。耳元でなる音楽は、もちろんSigur Rós。なんてったって、今日は彼らのライブに行くんだから。アイスランド出身のバンドである彼らの音楽に出会ったのは、高校生の頃だった。当時好きだった俳優がゲスト出演していたラジオ番組を聴いていた時に、その人のおすすめの楽曲としてSigur Rósの「Ísjaki」という曲がピックアップされていたのだ。初めて耳にするアイスランド語、聴いたことのない音色、独特のメロディー。60〜70年代のイギリスのロックを中心に聴いていた当時のわたしには、新鮮な彼らの音楽が未知の存在すぎて、正直あまり好きにはなれなかった(分からないものを嫌だ、好きでないと拒否してしまうのはもったいないし、恐ろしい。一旦受け入れる努力を今はしている)。けれど、”好きな人の好きなものは好きになりたい”という気持ち(この感覚わかる人いるかな)の一心で、自宅のラップトップを開きYoutubeで”シガーロス”と検索をかけた。上位に出てきた再生回数の多い動画を何の気なくクリックした。(当時私が観た動画は非公式にアップロードされたものだったので、全く同じ動画を公式が数年前にあげたものを貼り付けている)

 

www.youtube.com

 

「Hoppípolla」。あまりにも広大な大地、緑の土地、人々、空。新世界だった。私が寝起きするこの土地の延長線上にこんな場所があって、こんな風に音楽を囲んで、歌い、演奏する人々がいること。全てに心を揺さぶられて、全身に鳥肌が立ち、多分ほとんど泣いていたんじゃないかな。アイスランドに無性に惹かれるようになったのは、この映像に出会ったのがきっかけだった。地球の反対側にある国。遠くの国で今日もお茶を飲みながら、花を愛でたり、音楽を聴く人たちがいる。そう想像するだけで、私は今日という一日を生きることができる。

 

Sigur Rósのライブに訪れたのは今回が二度目。一度目のライブでは「Hoppípolla」は演奏されなかった。そして2025年2月の東京ガーデンシアター、私は14年越しにその曲を全身に浴びることができたんだ。きらきらとした煌めきのイントロが流れた瞬間に、内側から高揚し幸福感が溢れだした。このときめきの正体なに?

 

2時間半弱のライブで演奏されたのは19曲。曲の終わり、音が消えるその瞬間まで息を潜めて見守る観客たちの姿が印象的だった。一粒たりとも音を逃さずにいたいという人々の姿勢が美しかった。

 

”神様がいるって信じられる”。彼らの音楽に出会ってから今まで感じ続けている不思議な幸福感や安心感、浮遊感を例えて表現するなら、そんな感じ。

 

神様という言葉でわたしが真っ先に思い出すのは、前回のブログでも引用した映画『ビフォア・サンライズ』でセリーヌが放ったセリフ。

もし神が存在するなら、人の心の中じゃない。人と人との間の、わずかな空間にいる。この世に魔法があるなら、それは人が理解し合おうとする力のこと。

映画『ビフォア・サンライズ

端正なステージに揃うオーケストラ。オーケストラの一員のように混ざり合うバンドメンバーたち。指揮者がタクトを振る。観客の心の一つひとつすべてがステージに集まり、注がれ、全員が静かに呼吸をする。”つながった”、そう感じる瞬間だった。つながったのは、観客と演奏者? 観客たち? わたしたちと音楽? 

音が私たちを繋げていく。わたしたち一人ひとりが持つ世界は混じり合うことなく、音楽によって、束の間、お互いの空間を行き来する。その狭間に”神様”がふと現れたような気がした。

 

近代国家にせよ、中世の教会組織にせよ、古代の都市にせよ、太古の部族にせよ、人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根ざしている。

〈中略〉

宇宙に神は一人もおらず、人類の共通の想像の中以外には、国民も、お金も、人権も、法律も、正義も存在しない。

ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史・上』

 

わたしたちがこの世界で、社会で生きていけるのは世界を信じているからで、時には神様を信じるからで。神様の姿、形、人数は一人ひとりの世界で異なるし、神様という名前ではなく普段は別の(例えば愛とか気とか情とか、先祖とか仏とか、正義とか希望とかその他いろいろな)名前を持つのかもしれない。あなたとともにいたいと欲する時、力は生まれる。わたしとあなたは空間を共有する。わたしとあなたが関わることで世界は作られていく。

 

パンデミック然り、幾つもの紛争然り。そういう状況は今も変わっていないし、フェーズがさらに変化して社会が二分化され、ふたつの極に振り切れてしまったよね。何が正しくて何が間違いなのか、人々の捉え方が完全に分断されている。誰が正しくて誰が間違っているという話じゃなくて、みんながひとつになれる合意点が失われてしまった気がする。

アルバム・ジャケットも、そういう分断された世界の象徴として選んだんだ。アートの解釈は人によって違うからどう捉えてくれても構わないし、必ずしも“レインボー・フラッグが燃えている”図だとは限らない。僕の解釈では、この虹は不可侵の美の象徴なんだよ。北欧神話では虹の橋を渡った先にヴァルハラ(※主神オーディンの居城であり、天国に相当する)があってね。何とかして虹に近付いて触れようと試みるんだけど、決して触れることはできない。そんな虹を燃やす――つまり、不可侵なものを破壊するというのは、本当に強烈なイメージだと僕は思うな。

Rolling Stone「シガー・ロスが語る日本との絆、オーケストラ公演の全容、希望とメランコリーの30年」2025/2/26閲覧

sigur rósのアルバム『Atta』のジャケット

sigur rósのメンバーであるゲオルグ・ホルムが最新アルバムについて語った言葉。全然違うわたしとあなたがともに生きているこの土地で、わたしたちは互いに輪郭を持ち、間には境界線がある。互いに何を信じるのかはそれぞれで、あなたが信じるものを誰だって侵すことはできないよ。それでもね、わたしは同じ何かを信じていたい。あなたと共有していたい。

 

 

わたしの頭の中はいつだってごちゃごちゃで、今日だって言いたいこと、これっぽっちも言えていない。でも、画面の向こうのあなたの存在を感じている、同じ何かを共有してるって信じている。

あなたが今夜、じょうずに眠れますように。

 

今日のプレイリストは、わたしが訪れたsigur rósのライブのセットリスト。最近ずっと寝しなに聴いている↓

おやすみなさい金曜日

それでは、きょうはここまでーー

あなたがすべてを忘れても、わたしがぜんぶ覚えてる/『C’MON C’MON』と『Puking Rainbows Past and Future』

忘れてしまう、ということを怖く思うようになったのは、今となってはもう昔のことで。たぶん、はっきりとそう自覚をするようになったのは中学生くらいだったと記憶している。部活帰りの夕暮れに、学校から歩いてすぐの友達の家の前にたむろして、あまりにも取り止めのない話をしている私たち。そんな私たちを上空数メートルから眺めるもう一人の私。愛おしい時間。だいじすぎて、なくしたくなくて涙が出そうになる。友達との会話も表情もあなたの癖も、全部ぜんぶが、あまりにも取るに足る、そんな時間。そして私は強く思う。”ああ、忘れたくない”。覚えていたい、覚えておきたい。

 

「あっ」と思い立つとすぐにメモをとる癖が私にあるのは、忘却に対する恐れ(というより覚えていたいという欲望?)からかもなのしれない。ノートに連ねられる、日記とも言えないような日々の記録。記憶の欠片たち。今を綴るのは、未来の私のため?

 

『Puking Rainbows Past and Future』の綴じ口は虹色

数日前、書店twililightのオンラインショップで買った本が届いた。『Puking Rainbows Past and Future』。写真家のショーン・ロトマンと息子テンボによる共作で、互いをポラロイドで撮り合い手紙を送り合った、その瞬間たちの記録だ。私がこの本を手に取ったのは、大好きなマイク・ミルズの映画『C'MON C'MON』を連想したからだった。伯父と甥の関係にあるジョニーとジェシーがひょんなことから9日間を共に過ごす。その忘れがたき日々の映画(私はこの映画をえらく気に入って、blu-rayはもちろんのこと、ロケハンを記録した写真集に加え、A24のオンラインショップからドローイング集と劇中に出てくる絵本を取り寄せた。この絵本のことはまた後で)。ジョニーとジェシーがあなたとわたし、大人と子ども、過去と未来といった形のない境界線をなぞりながら交流をしたように、ショーンとテンボが積み重ねた親子の時間は、常に過ぎ去り続ける”今”を惜しんでいるようにも、常に来続ける新しい”今”を愛しんでいるようにも見えた。ジョニーとジェシー、ショーンとテンボ。それぞれの間にあるのは言ってしまえば、それはほとんど魔法みたいなもので。ぜんぜん違う人間、ぜんぜん分からないあなた(それは、あるいは、かつて子供だったわたし)のことをそれでも分かりたいと強く思うこと、そこに流れる時間はこの星が生んだありがたいひととき。

 

もし神が存在するなら、人の心の中じゃない。人と人との間の、わずかな空間にいる。この世に魔法があるなら、それは人が理解し合おうとする力のこと。

映画『ビフォア・サンライズ

 

映画『C'MON C'MON』は監督のマイク・ミルズが影響を受けたといういくつかの本を劇中に引用している。どれも素晴らしく、既に私のリーディングリストに追加済みなんだけれど、中でもとりわけ私の心に飛びこんできた一冊がある。伯父のジョニーがジェシーに「読んで」ってせがまれて、ある絵本を朗読するところ。ジョニーとジェシーは隣合ってベッドに横になりながら、寄り添いあって読み聞かせる。よくある寝しなの一コマのようであって、誰にでもきっと特別に残っている記憶の断片のように。

 

その絵本の主人公は、ある星から地球を眺める星の子。これから行く向こうの世界=地球での毎日に何が待っているのかを教えてもらっている。

多くの生き物がいる 想像を超えた植物や動物
ここは常に同じだが 向こうではすべてが動く 何もかもが常に変化している
地球の〈時間の川〉に飛び込むのだ
多くを学ぶだろう 多くを感じるだろう 快楽や恐れ 歓びや失望 悲しみや驚き
混乱と喜びの中で 自分が来た場所を忘れる
大人になり 旅をし 仕事をする もしかして子どもや孫を持つだろう
長年理解しようとする 幸せで 悲しく 豊かでーー
空っぽな変わり続ける人生の意味を
そして 星に還る日が来たら 不思議な美しい世界との別れが つらくなるだろう…

クレア・A・二ヴォラ著『STAR CHILD

 

私たちはみな星の子。この星にやって来る前の記憶はないけれど。この星に来る前のあなたも、どこかの星から地球を眺めながら、こんな話をしたのかもしれない、きっと。あなたがこれから過ごす世界についてさ。

 

私たちはどこからやって来て、どこに還るんだろう?

 

映画『ベルリン 天使の詩』の天使 ダミエルみたいに、私たちにもかつては大きな翼があって、好奇心か使命感か、それとも愛する人を愛するためか、それとも全然違う理由で地球に降り立ったのかもしれない。永遠の命、永遠の時間と引き換えてでも”地球の時間の川”の中でしか感じられない感情のあれこれを味わいにきたのかもしれない(それは、薔薇色の血を流したときやあなたの肌のぬくもりを感じたとき、コーヒーのたまらなくいい香りに出会ったとき、ベッドに体を沈めるときにしか感じられないものたちなんかのこと)。あなたの心の声が聞こえる能力を失ってでも(映画の中の天使たちは人間の心の内が分かる)、透明人間みたいに姿が見えない私のままでいるよりも、あなたの記憶にの残る人間の身体を手にいれることを選んだのかもしれない。あなたとハグできる一つのチャンスにかけたのかもしれない。

 

私たちはこの身体にこの心をセットして、あなたの魂に触れようと手を伸ばす。(私たちはどこからやって来て、どこに還るんだろう?)。

 

まだ幼いジェシーはこれからぐんぐん成長していく。いつか大人と呼ばれるようになり、取るに足らない日々のことなんてきっと忘れてしまうだろう。久々の再会に交わしたジョニーとのぎこちない挨拶も、勝手に居なくなって大声で怒られたことも、甘いものとテレビゲームのせいで眠れなくなっちゃった夜があったことも、きっと、忘れてしまう。こんなにもたくさんの抱きしめたくなる感情が溢れた9日間のことを何一つ思い出せなくなるかもしれない。

 

ジェシー:「このことをずっと覚えてる?」
ジョニー:「たぶんね」
ジェシー:「”忘れる”と言ったよ」
ジョニー:「”君は思い出せなくなる”と言った。僕は忘れない」
ジェシー:「僕も忘れない」

映画『C'MON C'MON』

 

「僕がすべてを思い出させてあげる」と言ったジェシーのことを、ジョニーはどんな思いで見つめたんだろう。

 

あなたが忘れてしまうかもしれない”今”を私は絶対に覚えているから。
そう思える時間があるこの人生が私はたまらなく愛おしい。

 

映画『C'MON C'MON』

 

『Puking Rainbows Past and Future』のページをめくる度に現れるポラロイドには、父ショーンが息子のテンボへ注ぐまなざしがそのままに残されている。自分の子ども時代を我が子に重ねた懐かしさと、もう戻らない今を惜しむ気持ち、そしてテンボが見つめる驚きに満ちた世界を共有したいという希望みたいなもの。ショーンはテンボとの日々をこう見つめる。

 

ぼくたちの日々、あの時間をとりわけ愛おしく感じるのは、彼がもうおもちゃで遊ばなくなってしまったからだ。彼の人生の、その部分の時間は過ぎ去り、そのことがすごく寂しい。

Sean Lotman & Tennbo Lotman『Puking Rainbows Past and Future』

 

過ぎ去ってしまうから、思い出せなくなってしまうからだいじなのかな。忘れてしまうって分かっているから、忘れたくないって思うのかな。

 

私が夜ごと日記をつけるのは、その日あったちっぽけな出来事たちを忘れたくないから。その日記を読み返す時、いつかの自分が今日という日を忘れていてもいいように、今の私が記録してあげよう。忘れないために、忘れてもいいように、記録してあげよう。

 

できる限り日記をつけること。若いうちにはじめた方がいい。細かいことは気にしなくていいから。とにかく紙に書いていくんだ(そう、必ず紙とペンを使うこと)。そうでなければ、何もかもどんどん忘れてしまうってことに、ある時君は気づくだろう。

Sean Lotman & Tennbo Lotman『Puking Rainbows Past and Future』

 

1月#日(日)の昼下がりに近所の友達の家を訪ねて行った。彼女とは大学時代からの仲よしで、それぞれの人生で大小の揺らぎを経験しながら今この時代を一緒に過ごせることが、私はたまらなく幸せ。その日集まったのは私を入れて5人。塞ぎがちな私をいつも外のひだまりに連れて行ってくれる人たちばかり。くだらないカードゲームでお腹が痛くなるまで笑いあって、手作りのナポリタンとフレンチトースト、外国のチョコレートに熱々の中国茶を囲みながらえいえんとしゃべったこと。あなたはいつか、忘れてしまうかな。

 

私だって、えいえんに覚えているって約束なんてできないよ。毎日の家事や仕事に追われて、だいじなことを思い出せなくなってしまうかも。それでも、たとえば50年後くらいの夕暮れに一人バルコニーでお茶をしているとき、ジャスミンの花の香りが鼻をそっとかすめたとして、あるいは、どこからともなく若者たちの笑い声が耳に届いて、外国のチョコレートが舌の上を滑ったとして。その時、ふと、この若き日のある日曜日を思い出すことがあるのかもしれない。私が過去の私を見つけた時、きっとそこで起こるのは新しい出会い。だいじな友人と初めてハグしたみたいなきらめき。

 

未来の私が過去の私を思い出すことで、新しく生まれる感情がきっとある。だから思い出すことを恐れないで。忘れることを恐れないで。

 

すてきな網の目の張り巡らされた、このあたらしい空間で。知らないあなたを思い出すため。忘れたあなたに出会うため。ふたたび世界を取り戻す。わたしがぜんぶ思い出してあげる。わたしがぜんぶ、思い出してあげる。

きくちゆみこ『わたしがぜんぶ思い出してあげる』

 

あなたはこの日々をきっと忘れてしまう。でも私が思い出してあげる。私が、きっと、思い出してあげる。だから忘れることを恐れないで。忘れてもいいように、忘れないでいるために。今を一緒に。この星の時の流れに身をまかせよう。

左上、左下『Puking Rainbows Past and Future』のカバーと本紙、右上『わたしがぜんぶ思い出してあげる』

 

時間だってたぶん、直線的に流れているだけじゃない。ものごとはすべて、蜘蛛の巣みたいにつながっている。ここは網の目の世界。無数の糸がはりめぐらされた、一枚の布の世界。あなたという存在がいるから、時の流れが変化する。そういうことって、信じられる?

she is「わたしが生きてるとここはどんな場所になる?/きくちゆみこ」2025/1/25閲覧

 

今夜のプレイリストは映画『C'MON C'MON』のサントラから特にお気に入りの3曲と(本当は全部入れたいくらいだけれど)と“Puking Rainbows”(虹を吐く)から連想する曲たち

 

おやすみなさい土曜日

それでは、きょうはここまでーー

境界で揺らぎながら生きる/『RM: Right People Wrong Place』を観た朝の映画館

3が日が終わったとはいえ、まだお正月気分のただなかで5時30分に起きるのは、正直少しつらかった。(まだ寝たい……)と心の中で思いながら、それでも自分で立てた予定のために、のっそりのっそり布団から這い出した。翌日に予定が控えている晩は寝つきが悪い。

 

地元から30分移動した先、目的地に到着したのは7時45分頃。朝一番の映画館には、思いの外人が集まっていて、お正月の朝から活動的だななんて、自分がそのうちの一人であることを忘れて他人事のように思ったりする。私の居場所ではないと、一歩外に出るといつだって違和感の中を仕方なく進んでいる気がしてしまう。巨大なハブ駅で縦横無尽に行き交う人達の間を、私だけがあっちに行ったりこっちに避けたり、時にはぶつかりつまづいたり、頭の中に描いたはずの綺麗な道筋は想像だけ。私ひとり、上手に歩けていないようだ。私がおかしくて、周りが正しい=Right Place, Wrong Personのか、はたまたその反対か。上映開始は8時ちょうどから。ドキドキしていた。外出は久しぶりだったから。早起きして朝の映画館に向かってまで、どうしても観たいドキュメンタリー作品があった。

 

 

映画鑑賞後に投稿したInstagramのストーリー

 

『RM: Right People Wrong Place』主人公はBTSのリーダー、RM。今年31歳になる彼とは同世代。でも親しみを覚えるには、あまりにも生きている(生きてきた)環境も立場も違いすぎる。そんな彼がスクリーンに映った瞬間、私は深く息を吸った。同じくらい深く息を吐いた。

 

画面の中の彼は揺らいでいた。

 

1時間30分の映像作品におさめられていたのは、同時代を生きる同世代の人間がもがき、生きる、正直な姿だった。正直すぎるくらいだった。(そんなに無防備で傷つくことがこわくないの?)って不思議に感じるほど。誰かに曝け出すには恥ずかしすぎると思ってしまうくらい、丸裸だった(だと私は感じた)。

 

彼はグレーゾーンの中を生きていた。光と闇、陰と陽、正しさと誤り、大人と子供、そして白と黒……。それらが彼の中を行ったり来たり、引いては押し寄せ、ぐるぐると巡っていた。あるいは、それらのあわいを、境界線上を、ゆらゆら揺らぎながら彼自身が行き来していた。画面に切り取られるどの瞬間しゅんかんも、彼は彼自身と彼が生み出すもの、そして彼が愛する人にこれ以上ないってくらい誠実で、率直だった(私もそういう人間になりたい、なれたなら)。

 

相対する(しているように見える)二つのものの境界を生きるとき、引き裂かれてしまいそうで、ばらばらになりそうで、こわい。それでも、ばらばらになりそうな部分と部分を寄せ集めて、苦悩も葛藤もぜんぶひっくるめて、それでひとつの塊=自分なんだろう。

 

迷路を彷徨った先で、"あたり”をつけた扉を「ここかな?」と思いながら開く。開いた先には、きっとゴールでもなく正解でもなく(もともとそんなものは存在していなくて)、ただ次の道が続いている。その道こそが自分の道なんだ(「ああ、なんてところに来てしまったんだ」ってその瞬間は思うかもしれないけれど)。これまでも、これからも、合っているのか、間違っているんじゃないか、わからない、わからないって、きっと迷い続けてしまうよ。その過程を忘れたくないな。忘れてもいいように、でも忘れたくないから、今この時をいつでも記録しておきたいよ。そして、その記録をいつかの自分が振り返った時、いくらかは学べることが詰まった美しき記憶となるように。

 

この繰り返しが生きていくってこと、生活するってこと、

 

 

なのかなあ、

 

 

なんて思ったりした1月4日土曜日の朝。

私が彼に憧れてしまうのは、グレーの世界で悩みつつもそれでもなお、生み出すことを喜びながら生きているからなのだろうな。

 

お正月モードの脳みそに、エナジードリンクが一気に注がれたようにスパークした、幸先のいい(?)一年の幕開け。

 

 

それでは、今日はここまでーー

 

 

Love wins all/私たちは愛が勝つと知っている

 

 

ところで、“Love Wins”という言葉を知ってる?

 

日本語にすると“愛は勝つ”。

極めてシンプルで、しなやかな強さと豊かさが伝わってくる。今日はこの言葉“Love Wins”をキーワードに、ぜひシェアしたいことがあるんだ :)

 

❤️‍🔥

 

話のきっかけにしたいのは、韓国のシンガー・ソングライター、IUが2024年1月24日にリリースした最新シングル「Love wins all」のこと。世界中で大人気のアーティストだし、話題になった楽曲なのですでに聴いた人もいるかもしれない。

 

タイトルの通り、この曲のテーマは愛。さまざまな解釈を呼ぶ映画のようなMV(大事なメッセージがあるので、後半で詳しくふれるよ)も相まって、聴く人(観る人)それぞれが想う愛を感じることができると思う。リリースされた瞬間からずっとリピートしている私は、もう何回再生したかわからないくらい!

 

「Love wins all」をSpotifyで再生しているiPhoneのスクリーンショット。楽曲のイメージビジュアルが映し出されており、モノクロの背景にピンクの文字で曲タイトルが手書き風フォントで描かれている。

 

実はこの「Love wins all」。リリース直前の1月19日になって、タイトルが変更された。その変更前のタイトルこそが“Love wins”だった。すでにリリースに向けたプロモーションも始まっていたし、本当に異例のことだったと思う。それでもタイトルを変えたい、変えなくてはならない理由があった。

 

最初の質問に戻るけれど、これを読んでくれているかもしれないあなたは“Love wins”という言葉を耳に、もしくは目にしたことはありますか? この言葉は“愛は勝つ”という意味以外にも、重要なメッセージを持っている。

 

2015年6月26日にアメリカ全土で同性婚が合法化。当時のSNS“#Lovewins”というハッシュタグを添えた投稿であふれた。この頃を機に、“Love wins”は、LGBTQIA をはじめとするセクシャルマイノリティの人々にとって大事な言葉になり、全員が当たり前に等しく持っているはずの“愛”の権利を主張したり、祝福したりするため、つまりは人権を守ために使われるシンボリックなキーワードになったそう。セクシャルマイノリティたちの“ため”の言葉とも言い換えられると思う。

 

そんな大切な言葉。この言葉を当事者ではないIUが歌う楽曲のタイトルに用いること。ここに懸念や疑問が生まれるのは当然なような気もする。中には怒りや悲しみを抱いた人もいたかもしれない。そして、このことに声を上げた方たちがいた。「言葉を奪わないで」と言った人たちがいた。そしてその声は、届いたんだ。

 

「Love wins」から「Love wins all」へ楽曲名を変更すると発表があったとき、IUの所属事務所がコメントをだした。

 
 
 
 
 
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この曲のタイトルによって重要なメッセージが曇ることを憂慮する意見を受け入れ、多様な姿で愛して生きていく皆をより尊重し応援しようと思います。

発売される曲に込めたメッセージと最も反対になる地点の言葉があるとすれば、それは「嫌悪」でしょう。

これは、18日に公開されたトラックのイントロでも詳細に言及されました。
嫌悪のない世の中ですべての愛が勝つことを、誰にも傷つかずにこの曲の意味が伝わることを心から願っています。

EDAM ENT Official Instagram 2024年1月19日の投稿から一部抜粋し、Papagoにて自動翻訳

 

愛は勝つ”というメッセージは“Love wins”という言葉を使わなくたって、十分に表現することができる。私は、この一連の流れを後々に知って、“力”を持っている人たち(今回の場合は、セクシャルマイノリティでない人、世界的に影響力があるアーティストという立場の人、そしてそのサポートをする会社)の対応に少なくない安心感を覚えたし、“愛は勝つ”のほんとうの意味にほんの少しちかづけた気がした。

 

🫶⟡.·

 

この曲が伝えたかったことーー。

 

冒頭で、「Love wins all」のMVについて少し触れたのだけれど、最高なのでもしよければぜひ実際に観てみてほしい。私が大好きなBTSのVも出演している! 私なりの解釈もいくつかあるのだけれど、映像監督をつとめた엄태화(オム・テファ)さんが公式に解説しているので、それを引用しながら、この楽曲に込められた想いと、社会へ、世界へ届けたいメッセージについてもみんなにシェアしたい。だって、このメッセージに私は大いに賛同しているから。

 

といっても私は韓国語が堪能ではないので、翻訳サイトにお世話になりながら……!(私は映画の考察とか読みながら視野を広げたり、解像度をあげて理解度を高めるのが好き)。

 

❶MV冒頭から登場する謎の「四角⬜️」

2人を執拗に追う「四角」の正体がファンの間で最も意見が分かれる。(中略)「四角」は主人公に向けた差別を意味し、さらに私たちの日常で蔓延した各種差別と抑圧などを意味すると解釈されることもあるだろう。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

❷キーアイテム「ビデオカメラ📹」

映像の中の時間背景は現在だが、ビデオカメラに撮られる画面の設定は廃墟になる前の何ともなかった世の中だ。 ビデオカメラのレンズは、すなわち「愛のフィルター」を意味する。 また、人物の内的または外的な姿を越えて世の中の美しいものを眺められる重要な装置と見ることができる。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

 

❸主人公たちの姿👫

「話せない人と左目だけで世の中を見る人のディストピア世界の生存記」とも見られるこのMVには色々な象徴が存在する。IUの唇を詳しくみてみるとチェーンが小さくかかっているが、これはすなわち世の中と完全に疎通するのに困難があることを意味する。 Vも左目に白色のレンズを着用し、一目で見ても2人が世の中の難関を乗り越えていくのに多くの困難があるものと見られる。 それでも彼らは「四角」から廃墟になってしまった世の中に、お互いをより一層頼るほかはなく、各自傷を負って疲れた状況でも最後まで勝ち抜こうと思う。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

❹どうしてウェディングドレスとタキシードなのか?👰🤵

ここでウェディングドレスとタキシードは最も常套的といえる「愛の結実」を象徴する。 MVで2人はこの服を着て、写真を撮り、歌を歌いながら楽しく遊ぶなど、これまで日常でできなかったことを一緒にしながら、少しでも幸せを味わう。

だが、ついに「四角」によって肉体が消滅し、彼らが羽織っていた「服」だけが残ることになる。 2人は最後のビデオカメラ画面で空中に浮び上がることが暗示されるが、これはあらゆる抑圧と圧迫から抜け出し自由に飛んでいけることを意味する。 決定的に空から落ちるドレスとタキシードは現実で意味があり重要だと思われる形式が果たして、本当の本質を見せてくれるのかについての質問を投げかけるという意味も内包する。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

MVの主人公たちは社会的な抑圧や圧迫を受けている人たちの象徴であり、そういった社会制度や構造、今の世の中の在り方じたいが障害になっている方たちの愛も例に漏れず、全て等しく尊重されるものだという"あたり前"のことを示している。

 

周り(私たち)から認められる/認められないということに関わりなく、"あたり前"の幸福を享受する権利があるし、愛し合うことにとやかく言う権利を周り(私たち)は持っていない。

 

抑圧を受けている人たち、現社会が障害になっている人たち、マイノリティ、さまざまな表現で示すことができると思うのだけれど、そうした方々のために、私は日頃、どれだけ心を寄せられているだろう。どれだけ行動を起こし、どれだけ考えをめぐらせ、ともに戦えているだろう。そして、私はどれだけ障害なく生きられていて、抑圧を受けずに済んでいて、“あたり前”に愛するということをしているんだろう。この曲を聴くと、私は否が応でもじぶんじしんの暮らしや生き方そのものをかえりみる。全ての愛を尊ぶということ。この権利をみんなが獲得(当然にあるものだから、この表現もちょっとおかしいけれど)するためには、やっぱり、手を取り合って、マジョリティも力を持つものも一緒になって戦って、進んでいくことでしかありえないんじゃないかって考えたりもする。そんな考えをめぐらせるチャンスをくれた「Love wins all」が私はとても好き。

 

ただここでもう一つ残しておきたい私の考えががある。この楽曲(曲自体とMV)がさまざまな在り方で、方法で愛する人たちを応援したい、してくれるものなのだとしたらーー。

 

MVの中で、話せない(手話を使っている)人を演じるIU、左目が見えない人を演じるV。この2人は役の特徴を持つ当事者ではない。はたして、社会が障害になっている人たちの役を当事者以外が演じることじたいに疑問を持たなくていいのだろうか? そしてそのストーリーを私たち(マイノリティではない人たち)が感動物語として簡単に、単純に鑑賞してしまって良いのだろうか......と。

 

違和感ともやもや。

 

私はこのMVを観た時、確かに心震え感動したし、涙も流した。でも次第に、不安や恥ずかしさみたいなものが込み上がってきた。マイノリティの役をその当事者である人達が演じる映画やドラマ作品が増え、それをスタンダードにしていく流れがある中で、やっぱり私はこの演出のすべてを素晴らしく美しいものとして受け入れてはならないんじゃないかって思った。

 

これじゃあ、結局おんなじことの繰り返しになってしまう。

 

音楽と社会は繋がっている。この曲の制作に関わり、美しく歌うIUのことが私は大好きだし、この曲も愛したい。すべての"愛は勝つ"という言葉が、曲がもつ本当の意味をちゃんと受け取りたい。だからこそ、私は考えることをやめずにいたい。そして私自身のマジョリティとしての側面、もっている力を使いながら、当事者の声を奪うことなく、物語としてむやみに消費せずに、模索しつつも進んでいきたい。“愛は勝つ”あたり前の社会へと変えていきたい。

 

"Love wins"、そして"Love wins all"

ひとりでもともに進む仲間が増えたなら、すごく嬉しい。

 

⋆⸜ ❤️🧡💛💚💙💜 ⸝⋆

 

今夜のBGMは「Love wins all」と一緒に再生したい曲たち。愛がテーマの音楽って星の数くらいあるから、特に今の私のムードにフィットするものをピックアップしたよ↓

open.spotify.com

 

おやすみ金曜日

明日、少しでも悲しみが少ない世界に出会えますように

それでは、きょうはここまでーー

 

 

 

 

(2024.1.26)

 

私には私ひとり分の力がある/Power To The People

 

 

iphoneのロック画面のスクリーンショット。占いアプリ「CoーStar」の通知には「Try not to apologize for your existence.」と綴られている。



 


昨日の日記
でじぶんにかけた言葉。

 

 

今、居る、ここから、できるときに、できることを、粛々と

 

この言葉と同じくらいの高い温度で、慎重に、繊細に、確実に私の内側に浸透させておきたい言葉がある。出会いは2024年になってまもなく、相変わらずの無気力感を携えていたころ。時間があるお正月のうちに溜め込んでいたタスク(と言ってもわくわくするリスト!)に手をつけようと、Googleメールボックスの“スター付き”フォルダを開いた。

 

💌

 

時間を見つけてからじっくり読もうととっておいた、一通のメール。それは、個人と個人の対話を出発点に遠くの誰かにまで想像や語りを広げる活動を行なっているme and youの竹中万季さんと野村由芽さんから届くニュースレター「message in a bottle」12月29日配信のvol. 61だった。隔週金曜日にしずかに送られてくるこのレターは私にとってとってもたいせつ(ニュースレターの購読もできるし、メディアもコミュニティも最高なので、気になった方はぜひチェックしてみてっ💫)。

 

とめどなく流れ込んでくるニュース。そこに映る惨状と理不尽さや非常さに満ちた人々の姿や理解しがたく(理解したくもない)思考や行動に、ここ最近の私の健やかさは奪われつづけていた。無気力な私。身動きが取れなくなっていた私。じぶんの力を信じられなくなっていた私。私の内なる海は荒れ狂っていた。そんな大波の間を縫って、ニュースレターにつづられた由芽さんの文章がするすると染み込んでくる。ほとんど難破しかけの船に乗っていた私は、瞬間、視界の端に光がくべられた灯台を見つけ、ほんとうに救われた思いがした(ご自身がニュースレターから引用されて、年末にInstagramへポストされていたので、貼り付けさせていただきます↓)。

 

 
 
 
 
 
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ECDは「どうして無力だと思いたがるのか。あるよ。ひとりにはひとり分。力が。」という言葉を2014年に当時のTwitterに書き込んだということを、わたしは今年の10月7日以降のパレスチナの状況において初めて知り、すごい言葉だ、と思いました。自分以上のことをなにかしなければならないと焦っているときこの言葉は、足場のない焦りの熱を冷ますために機能すると感じた。

Yume NomuraさんのInstagram

 

大きな何か(時には高い壁や塀、巨大な怪物みたいに見えて足がすくんで震える)を前にして、ちっぽけなじぶんに悲しみや悔しさやそれに似た感情を抱く。きっと誰もが経験しうることなんじゃないかな。でも、それでも進んでいく。進んでいきたい。そして今、思う。その原動力はじぶんにある力を信じることなんじゃないかなって。与えられたり得たりした力じゃなくって、もともとここにある力。ううん、信じるっていうのともちがう。信じる/信じないというよりも、確かにあるっていう一つの事実なんだろう。

 

由芽さんは続ける。

 

自分にはなにもできることがないのではないか、あるいは自分がなにかをしたところでなにになるのだろうかと、無力さを抱えているときには、自分のことを誰もがやればいいのだ/やるしかないのだという励ましと推進力に変わった。誰もが、ひとりぶんの力を使い、ひとりぶんとひとりぶんを持ち寄ることしかできないのだとも思えた。推進力にも抑止力にもなる鼓舞と治癒の言葉。なにかを決めつけず、たゆたう一人ひとりの状況と想いの幅をうけとめる言葉が、ひとのからだから絞り出されることもひとひとり分の力。

Yume NomuraさんのInstagram

 

この言葉を受け取ったあの日、あの時の私は“ひとひとり分の力”の“すごさ”みたいなものを全身で感じて、文字通り震えたんだ。私に推進力を、鼓舞と治癒をさずけてくれた言葉。そして今、私は私にもある“ひとり分の力”を確かめるようにこのブログを書いている。

 

一人ひとりにある“ひとり分の力”に気づくことで「今、居る、ここから、できるときに、できることを、粛々と」とそれぞれが“やる”ことに繋がっていけるんじゃないかな。

 

先日待ち合わせをした友人が「りなちゃんのストーリーを見て、ヤフーの募金したんだよ。情報をシェアしてくれてありがとう」と言ってくれた。この言葉をもらったのとほとんど同時に「一人が数百円や数千円募金したところで意味ないだろ」というXの投稿をみかけた。ひとり分の力がひゃく集まれば、それはひゃくにん分の力になる。せん集まれば、せんにん分の力に。そうして集まった力は、もしかすると、ひゃくやせんじゃなくって、目に見える数字よりももっともっと大きな力になるかもしれない。

 

www.threads.net

 

これを読んでくれているかもしれないあなたにも、こんな私と同じようにひとりぶんの力があるんだよ。あなたの隣のあなたにも、そのまた隣のあなたにも。

 

 

今夜のBGMは、“力がある”ことに気づかせてもらった、昨日も今も、明日からも進んでいこうとする私に寄り添う曲たち↓

open.spotify.com

 

 

それでは、きょうはここまでーー

 

 

(2024.1.23)