星くずインターセクション

平凡なものを不滅にするってすごくクールだ◝✩

#日記にオチは必要ない | ハグっとしよう( * ◡ * )

ハグ

してほしいって思うことない?

 

悪夢にうなされて飛び起きた深夜2時

さりげなくいじわるを言われたとき

小さな失敗が積み重なってへとへとで帰宅した玄関で

根拠のない不安に襲われる生理前

 

わたしはいつも、ハグを求めてる

 

ああ、今、こんなとき、

なにも言わずにハグをしてほしい

そっと包み込むように

布に包まれたような安心感と

染み込むようなやさしさに

ぬくぬくしたい

 

でも、そんなとき

わたしにハグは訪れない

 

気がゆるむと泣いてしまいそうで

左の手の甲に爪を立てる

ああ、また泣くのを我慢したんだね、と

泣きたいわたしが悲しくつぶやく

 

もし、近くに(遠くてもいい)

わたしとおんなじ、ハグを求めている人がいるとして

わたしはいつでもエアハグを飛ばす準備ができてるよって伝えたい

 

空間も時間も海もこえて

すぐに飛んでいくよ、わたしのエアハグ飛ばせるよ

 

落ち込んでいる友達に出会ったら

傷ついた家族を見つけたら

悲しみにくれるパートナーがいたら

わたし   きっと

なにも問わずに、きっと迷わずにハグをしたい

 

だから

泣きたいけれど、泣けないきょうは

わたしのいちばんの友達になって

わたしの特別な家族として

わたしを愛するパートナーとして

わたしは、わたしにハグをする

 

左腕と右腕を

むねの前でクロスして

ハグっと

 

ぜんぜん、だいじょばない今日だけど

だいじょうぶ

左手の甲の爪痕は

ゆっくり ちゃ ん と いえていく

 

 

イラスト(紫の背景に手が描かれている。手には、顔文字と“TINY LUCK”のタトゥーシールが貼ってある)

イラストの元になった写真(私の左手。手には、顔文字と“TINY LUCK”のタトゥーシールが貼ってある)

 

おやすみ世界

あした、いくつもの日曜日が

愛でうるおい

やさしさににあたたまりますように

あなたを包む布を編みながら

わたしも今夜を越えてくよ

 

今夜のBGM↓

open.spotify.com

 

それでは、きょうはここまでーー

 

(2024.1.27)

 

 

Love wins all/私たちは愛が勝つと知っている

 

 

ところで、“Love Wins”という言葉を知ってる?

 

日本語にすると“愛は勝つ”。

極めてシンプルで、しなやかな強さと豊かさが伝わってくる。今日はこの言葉“Love Wins”をキーワードに、ぜひシェアしたいことがあるんだ :)

 

❤️‍🔥

 

話のきっかけにしたいのは、韓国のシンガー・ソングライター、IUが2024年1月24日にリリースした最新シングル「Love wins all」のこと。世界中で大人気のアーティストだし、話題になった楽曲なのですでに聴いた人もいるかもしれない。

 

タイトルの通り、この曲のテーマは愛。さまざまな解釈を呼ぶ映画のようなMV(大事なメッセージがあるので、後半で詳しくふれるよ)も相まって、聴く人(観る人)それぞれが想う愛を感じることができると思う。リリースされた瞬間からずっとリピートしている私は、もう何回再生したかわからないくらい!

 

「Love wins all」をSpotifyで再生しているiPhoneのスクリーンショット。楽曲のイメージビジュアルが映し出されており、モノクロの背景にピンクの文字で曲タイトルが手書き風フォントで描かれている。

 

実はこの「Love wins all」。リリース直前の1月19日になって、タイトルが変更された。その変更前のタイトルこそが“Love wins”だった。すでにリリースに向けたプロモーションも始まっていたし、本当に異例のことだったと思う。それでもタイトルを変えたい、変えなくてはならない理由があった。

 

最初の質問に戻るけれど、これを読んでくれているかもしれないあなたは“Love wins”という言葉を耳に、もしくは目にしたことはありますか? この言葉は“愛は勝つ”という意味以外にも、重要なメッセージを持っている。

 

2015年6月26日にアメリカ全土で同性婚が合法化。当時のSNS“#Lovewins”というハッシュタグを添えた投稿であふれた。この頃を機に、“Love wins”は、LGBTQIA をはじめとするセクシャルマイノリティの人々にとって大事な言葉になり、全員が当たり前に等しく持っているはずの“愛”の権利を主張したり、祝福したりするため、つまりは人権を守ために使われるシンボリックなキーワードになったそう。セクシャルマイノリティたちの“ため”の言葉とも言い換えられると思う。

 

そんな大切な言葉。この言葉を当事者ではないIUが歌う楽曲のタイトルに用いること。ここに懸念や疑問が生まれるのは当然なような気もする。中には怒りや悲しみを抱いた人もいたかもしれない。そして、このことに声を上げた方たちがいた。「言葉を奪わないで」と言った人たちがいた。そしてその声は、届いたんだ。

 

「Love wins」から「Love wins all」へ楽曲名を変更すると発表があったとき、IUの所属事務所がコメントをだした。

 
 
 
 
 
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この曲のタイトルによって重要なメッセージが曇ることを憂慮する意見を受け入れ、多様な姿で愛して生きていく皆をより尊重し応援しようと思います。

発売される曲に込めたメッセージと最も反対になる地点の言葉があるとすれば、それは「嫌悪」でしょう。

これは、18日に公開されたトラックのイントロでも詳細に言及されました。
嫌悪のない世の中ですべての愛が勝つことを、誰にも傷つかずにこの曲の意味が伝わることを心から願っています。

EDAM ENT Official Instagram 2024年1月19日の投稿から一部抜粋し、Papagoにて自動翻訳

 

愛は勝つ”というメッセージは“Love wins”という言葉を使わなくたって、十分に表現することができる。私は、この一連の流れを後々に知って、“力”を持っている人たち(今回の場合は、セクシャルマイノリティでない人、世界的に影響力があるアーティストという立場の人、そしてそのサポートをする会社)の対応に少なくない安心感を覚えたし、“愛は勝つ”のほんとうの意味にほんの少しちかづけた気がした。

 

🫶⟡.·

 

この曲が伝えたかったことーー。

 

冒頭で、「Love wins all」のMVについて少し触れたのだけれど、最高なのでもしよければぜひ実際に観てみてほしい。私が大好きなBTSのVも出演している! 私なりの解釈もいくつかあるのだけれど、映像監督をつとめた엄태화(オム・テファ)さんが公式に解説しているので、それを引用しながら、この楽曲に込められた想いと、社会へ、世界へ届けたいメッセージについてもみんなにシェアしたい。だって、このメッセージに私は大いに賛同しているから。

 

といっても私は韓国語が堪能ではないので、翻訳サイトにお世話になりながら……!(私は映画の考察とか読みながら視野を広げたり、解像度をあげて理解度を高めるのが好き)。

 

❶MV冒頭から登場する謎の「四角⬜️」

2人を執拗に追う「四角」の正体がファンの間で最も意見が分かれる。(中略)「四角」は主人公に向けた差別を意味し、さらに私たちの日常で蔓延した各種差別と抑圧などを意味すると解釈されることもあるだろう。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

❷キーアイテム「ビデオカメラ📹」

映像の中の時間背景は現在だが、ビデオカメラに撮られる画面の設定は廃墟になる前の何ともなかった世の中だ。 ビデオカメラのレンズは、すなわち「愛のフィルター」を意味する。 また、人物の内的または外的な姿を越えて世の中の美しいものを眺められる重要な装置と見ることができる。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

 

❸主人公たちの姿👫

「話せない人と左目だけで世の中を見る人のディストピア世界の生存記」とも見られるこのMVには色々な象徴が存在する。IUの唇を詳しくみてみるとチェーンが小さくかかっているが、これはすなわち世の中と完全に疎通するのに困難があることを意味する。 Vも左目に白色のレンズを着用し、一目で見ても2人が世の中の難関を乗り越えていくのに多くの困難があるものと見られる。 それでも彼らは「四角」から廃墟になってしまった世の中に、お互いをより一層頼るほかはなく、各自傷を負って疲れた状況でも最後まで勝ち抜こうと思う。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

❹どうしてウェディングドレスとタキシードなのか?👰🤵

ここでウェディングドレスとタキシードは最も常套的といえる「愛の結実」を象徴する。 MVで2人はこの服を着て、写真を撮り、歌を歌いながら楽しく遊ぶなど、これまで日常でできなかったことを一緒にしながら、少しでも幸せを味わう。

だが、ついに「四角」によって肉体が消滅し、彼らが羽織っていた「服」だけが残ることになる。 2人は最後のビデオカメラ画面で空中に浮び上がることが暗示されるが、これはあらゆる抑圧と圧迫から抜け出し自由に飛んでいけることを意味する。 決定的に空から落ちるドレスとタキシードは現実で意味があり重要だと思われる形式が果たして、本当の本質を見せてくれるのかについての質問を投げかけるという意味も内包する。

아이유의 웨딩드레스와 BTS 뷔의 턱시도, 뮤비 해석 가이드 보니 から一部抜粋しPapagoにて自動翻訳

 

MVの主人公たちは社会的な抑圧や圧迫を受けている人たちの象徴であり、そういった社会制度や構造、今の世の中の在り方じたいが障害になっている方たちの愛も例に漏れず、全て等しく尊重されるものだという"あたり前"のことを示している。

 

周り(私たち)から認められる/認められないということに関わりなく、"あたり前"の幸福を享受する権利があるし、愛し合うことにとやかく言う権利を周り(私たち)は持っていない。

 

抑圧を受けている人たち、現社会が障害になっている人たち、マイノリティ、さまざまな表現で示すことができると思うのだけれど、そうした方々のために、私は日頃、どれだけ心を寄せられているだろう。どれだけ行動を起こし、どれだけ考えをめぐらせ、ともに戦えているだろう。そして、私はどれだけ障害なく生きられていて、抑圧を受けずに済んでいて、“あたり前”に愛するということをしているんだろう。この曲を聴くと、私は否が応でもじぶんじしんの暮らしや生き方そのものをかえりみる。全ての愛を尊ぶということ。この権利をみんなが獲得(当然にあるものだから、この表現もちょっとおかしいけれど)するためには、やっぱり、手を取り合って、マジョリティも力を持つものも一緒になって戦って、進んでいくことでしかありえないんじゃないかって考えたりもする。そんな考えをめぐらせるチャンスをくれた「Love wins all」が私はとても好き。

 

ただここでもう一つ残しておきたい私の考えががある。この楽曲(曲自体とMV)がさまざまな在り方で、方法で愛する人たちを応援したい、してくれるものなのだとしたらーー。

 

MVの中で、話せない(手話を使っている)人を演じるIU、左目が見えない人を演じるV。この2人は役の特徴を持つ当事者ではない。はたして、社会が障害になっている人たちの役を当事者以外が演じることじたいに疑問を持たなくていいのだろうか? そしてそのストーリーを私たち(マイノリティではない人たち)が感動物語として簡単に、単純に鑑賞してしまって良いのだろうか......と。

 

違和感ともやもや。

 

私はこのMVを観た時、確かに心震え感動したし、涙も流した。でも次第に、不安や恥ずかしさみたいなものが込み上がってきた。マイノリティの役をその当事者である人達が演じる映画やドラマ作品が増え、それをスタンダードにしていく流れがある中で、やっぱり私はこの演出のすべてを素晴らしく美しいものとして受け入れてはならないんじゃないかって思った。

 

これじゃあ、結局おんなじことの繰り返しになってしまう。

 

音楽と社会は繋がっている。この曲の制作に関わり、美しく歌うIUのことが私は大好きだし、この曲も愛したい。すべての"愛は勝つ"という言葉が、曲がもつ本当の意味をちゃんと受け取りたい。だからこそ、私は考えることをやめずにいたい。そして私自身のマジョリティとしての側面、もっている力を使いながら、当事者の声を奪うことなく、物語としてむやみに消費せずに、模索しつつも進んでいきたい。“愛は勝つ”あたり前の社会へと変えていきたい。

 

"Love wins"、そして"Love wins all"

ひとりでもともに進む仲間が増えたなら、すごく嬉しい。

 

⋆⸜ ❤️🧡💛💚💙💜 ⸝⋆

 

今夜のBGMは「Love wins all」と一緒に再生したい曲たち。愛がテーマの音楽って星の数くらいあるから、特に今の私のムードにフィットするものをピックアップしたよ↓

open.spotify.com

 

おやすみ金曜日

明日、少しでも悲しみが少ない世界に出会えますように

それでは、きょうはここまでーー

 

 

 

 

(2024.1.26)

 

私には私ひとり分の力がある/Power To The People

 

 

iphoneのロック画面のスクリーンショット。占いアプリ「CoーStar」の通知には「Try not to apologize for your existence.」と綴られている。



 


昨日の日記
でじぶんにかけた言葉。

 

 

今、居る、ここから、できるときに、できることを、粛々と

 

この言葉と同じくらいの高い温度で、慎重に、繊細に、確実に私の内側に浸透させておきたい言葉がある。出会いは2024年になってまもなく、相変わらずの無気力感を携えていたころ。時間があるお正月のうちに溜め込んでいたタスク(と言ってもわくわくするリスト!)に手をつけようと、Googleメールボックスの“スター付き”フォルダを開いた。

 

💌

 

時間を見つけてからじっくり読もうととっておいた、一通のメール。それは、個人と個人の対話を出発点に遠くの誰かにまで想像や語りを広げる活動を行なっているme and youの竹中万季さんと野村由芽さんから届くニュースレター「message in a bottle」12月29日配信のvol. 61だった。隔週金曜日にしずかに送られてくるこのレターは私にとってとってもたいせつ(ニュースレターの購読もできるし、メディアもコミュニティも最高なので、気になった方はぜひチェックしてみてっ💫)。

 

とめどなく流れ込んでくるニュース。そこに映る惨状と理不尽さや非常さに満ちた人々の姿や理解しがたく(理解したくもない)思考や行動に、ここ最近の私の健やかさは奪われつづけていた。無気力な私。身動きが取れなくなっていた私。じぶんの力を信じられなくなっていた私。私の内なる海は荒れ狂っていた。そんな大波の間を縫って、ニュースレターにつづられた由芽さんの文章がするすると染み込んでくる。ほとんど難破しかけの船に乗っていた私は、瞬間、視界の端に光がくべられた灯台を見つけ、ほんとうに救われた思いがした(ご自身がニュースレターから引用されて、年末にInstagramへポストされていたので、貼り付けさせていただきます↓)。

 

 
 
 
 
 
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ECDは「どうして無力だと思いたがるのか。あるよ。ひとりにはひとり分。力が。」という言葉を2014年に当時のTwitterに書き込んだということを、わたしは今年の10月7日以降のパレスチナの状況において初めて知り、すごい言葉だ、と思いました。自分以上のことをなにかしなければならないと焦っているときこの言葉は、足場のない焦りの熱を冷ますために機能すると感じた。

Yume NomuraさんのInstagram

 

大きな何か(時には高い壁や塀、巨大な怪物みたいに見えて足がすくんで震える)を前にして、ちっぽけなじぶんに悲しみや悔しさやそれに似た感情を抱く。きっと誰もが経験しうることなんじゃないかな。でも、それでも進んでいく。進んでいきたい。そして今、思う。その原動力はじぶんにある力を信じることなんじゃないかなって。与えられたり得たりした力じゃなくって、もともとここにある力。ううん、信じるっていうのともちがう。信じる/信じないというよりも、確かにあるっていう一つの事実なんだろう。

 

由芽さんは続ける。

 

自分にはなにもできることがないのではないか、あるいは自分がなにかをしたところでなにになるのだろうかと、無力さを抱えているときには、自分のことを誰もがやればいいのだ/やるしかないのだという励ましと推進力に変わった。誰もが、ひとりぶんの力を使い、ひとりぶんとひとりぶんを持ち寄ることしかできないのだとも思えた。推進力にも抑止力にもなる鼓舞と治癒の言葉。なにかを決めつけず、たゆたう一人ひとりの状況と想いの幅をうけとめる言葉が、ひとのからだから絞り出されることもひとひとり分の力。

Yume NomuraさんのInstagram

 

この言葉を受け取ったあの日、あの時の私は“ひとひとり分の力”の“すごさ”みたいなものを全身で感じて、文字通り震えたんだ。私に推進力を、鼓舞と治癒をさずけてくれた言葉。そして今、私は私にもある“ひとり分の力”を確かめるようにこのブログを書いている。

 

一人ひとりにある“ひとり分の力”に気づくことで「今、居る、ここから、できるときに、できることを、粛々と」とそれぞれが“やる”ことに繋がっていけるんじゃないかな。

 

先日待ち合わせをした友人が「りなちゃんのストーリーを見て、ヤフーの募金したんだよ。情報をシェアしてくれてありがとう」と言ってくれた。この言葉をもらったのとほとんど同時に「一人が数百円や数千円募金したところで意味ないだろ」というXの投稿をみかけた。ひとり分の力がひゃく集まれば、それはひゃくにん分の力になる。せん集まれば、せんにん分の力に。そうして集まった力は、もしかすると、ひゃくやせんじゃなくって、目に見える数字よりももっともっと大きな力になるかもしれない。

 

www.threads.net

 

これを読んでくれているかもしれないあなたにも、こんな私と同じようにひとりぶんの力があるんだよ。あなたの隣のあなたにも、そのまた隣のあなたにも。

 

 

今夜のBGMは、“力がある”ことに気づかせてもらった、昨日も今も、明日からも進んでいこうとする私に寄り添う曲たち↓

open.spotify.com

 

 

それでは、きょうはここまでーー

 

 

(2024.1.23)

“できる”を粛々と/だいじょうぶ、私はあなたの味方だよ。

※2024年1月1日に発生した石川県能登地方を震源とする地震に触れる描写があります

 

 

私は私として、何を表明するのか? そもそも表明ってしなきゃダメなのかな?

 

 

表明

自分の考え・決意などを、はっきりあらわし示すこと。

表明(ひょうめい)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書

 

 

毎日、はんぶん癖みたいにSNSのアイコンをタップしてしまうこの指を時々うらめしく思うよ。久々のブログ更新だけど、あまり深く考えすぎずに今思うことをそのままに綴るよう努めてみるね。(読み返すとぜんぶを書き直したくなっちゃうから、後から手を加えてない。もしかしたら誤字、脱字あるかもだけれど。それも生っぽくていいかもね)

 

もともと低迷気味だった、そのままのメンタル状態で年末を過ごしていたし、だから年が変わったからって、突然にエナジーがみなぎるなんてことあるわけないって最初から気づいてた。でも、大晦日と元旦を隔てる透明なカーテンのようなものの存在も心のどこかでは期待していたんだろうな。ひょいとめくれば晴れやかな空が、カーテンの向こうにはそんな窓があるんじゃないかって。でもやっぱりそんなことはなくて。ぐちゃっと丸められたモヤモヤを抱えながら、存在しない“時の仕切り線”をゆっくりと通過した。

 

2024年の1月1日は多くの人が心を痛めたと思う。能登半島での大きな大きな地震。その時の私はというと、ダイニングテーブルの端っこ、エアコンでコントロールされたぬくぬくの室温の中、読みかけの本を広げていた。「せっかくのお正月だから」という決まり文句を吐きながら、とっておきの甘味を頬張り、お茶をすすっていた。夕暮れ時、カップのお茶が波打っていることに気づくと、たちまち、観葉植物もカーテンもダイニングテーブルも私の身体も大きく揺れ始めた。テレビやSNS地震の発生を知らせるニュースで溢れた。

 

翌日以降からは、新年の挨拶をする有名人のSNSにはお悔やみの言葉が必ずと言っていいほど記された。その言葉たちを目にするたびに、被害に遭われた方々を想い胸がしくしくと痛んだし、同時にいつもの無力感にさいなまれていた。(今この瞬間、もし不安やそれに似た感情に包まれている人がいるとしたら、右手を胸に、左手をお腹にそっとあてて、深く呼吸をしてみて。内側へと意識を集中させると、鼓動や上下するお腹の膨らみにもしかしたら安心するかもしれない)

 

 

zine「Call If You Need Me」をもつ私と友人の手元。背景はブックショップ「OH! MY BOOKS」の入口のピンク色のドア。

リーディングパーティに訪れた時に、一緒にいったお友達とパシャリ。zine「Call If You Need Me」とともに。

ずっと楽しみにしていた年明け最初の予定は1月10日に開かれた、とある読書会。以前から愛聴しているPodcast番組「Call If You Need Me」から生まれた同名のzineをみんなで囲んでお話しするリーディングパーティだ。(番組もzineも最高なのでぜひチェックしてみて!)会場は、選書のセンスもショップの内装も店主さんもスーパーキュートな「OH!MY BOOKS」という本屋さん。念願かなっての初来店。気になるトークの中身はそれはもう色々、様々、ぎゅぎゅっとたくさんで、ここに全てを書き記すことはとてもじゃないけれどできないな。確かなのは、脳みそがスパークしっぱなしの濃密なひとときだったということ。

 

そこで積み上げた膨大な記憶の中から、今特にここに残しておきたいことを選んで綴ってみようと思う。願わくば、同じように苦しんでいる誰かのもとに届いたらいいな。そんな希望も込めて。(そう思って、イベント後に殴り書きしたメモを見返してみているんだけれど、文字に勢いがあって、じぶんでも解読不能な部分があってちょっとおかしい)

 

年始の震災、その翌日の飛行機の事故、パレスチナのこと、そのほか、星の数くらいいっぱい、いっぱいある考えること、心を寄せること。あの日、読書会に集った20数名はそれぞれに心を痛めたり、不安ややるせなさや悲しみとかを抱えたりしながら“そこ”に居たと思う。そして、おそらくそのほとんどの人が日々インターネットに触れていて、SNSもやっているかもしれなくて、オンライン、オフラインを問わず常に情報の発信者であり、受け取り手でもあって。会の最中も、「じぶんの意見を言わなきゃ」って思っていた人がもしかしたら居るかもしれない。(ここで、ちゃんと触れておかなきゃなのは、リーディングパーティは誰もがそのまま好きなようにそこに居ていいよっていう、安らぎと優しさが流れる空間だったってこと)

 

私たちがある事柄に出会った時、目の前に問題と言われるようなものが立ちはだかった時、「それで、あなたはどうするの? 何を思い、どう考え、表明するの?」と名もなき誰かが問いかけてくるなんてこと、ないかな。

 

「今日より明日が良くなりますように。誰かのためになりたくって、優しくしたくって、私がここに存在することでどこかの誰かの苦しみや悲しみが減らせるならこんなに嬉しいことはない」と私は思っていて(嘘じゃないよ)。そしてその思いの延長で、常に私は“ある問題”について「私はこう考えます」と表明しなくちゃいけないんだって思ってきた。しかもその表明は、“正しさ”を追いかけてたどり着いた“完璧そうな”ものじゃなきゃって。

 

「沈黙は加担だ」と言う人がいる。私も本当にその通りだなって思っているから、署名をしたり、ハッシュタグ・アクティビズムに参加したり、色んな人の話に耳を傾けるよう努めて、本を読み、日頃からチェックしているメディアや尊敬するアクティビストの意見を探したりする。そうやって“じぶんの意見”を編み上げていく。その一方で、知れば知るほどに、知らないことの多さに驚き、無知だったじぶんを恥ずかしく思ったり、落胆し不安になったりする。

 

わんわんと頭に響く「それで、あなたはどうなのよ? 表明してよ」という問いかけと、じぶんの発言で傷つく人がいたらどうしよう、“間違ったら”どうしようという思考に挟まれて、身動きがとれなくなっちゃうことがある。

 

私(たち)が行動することで変えていくんだという意気込み。うう、でも怖いな。そもそも、考える気力もなければ、メンタルバランスも崩れてる。でも、でも、沈黙は加担と一緒だよね——。永遠に続くループ。

 

ゴーストのような形をした小さな置き物がふたつ並んでいる。

手作りの“tomodachi”たち。こんど、また紹介するね

誰もが発信者であるという事実は、私にとっては恐怖で喜びであり、希望で絶望感でもある。あの日から10日余りが経った今、リーディングパーティーに参加した方々の声、「Call If You Need Me」のホストであるBROTHER SUN SISTER MOONの惠愛由さん、Laura day romanceの井上花月さんの言葉を反芻しながら、私が私に言ってあげたいのはね。

 

今、居る、そこから、できるときに、できることを、粛々と

 

「もう、なーーーーーんもできない……!!!」って日もあって。目前の何かにすべてのパワーを持っていかれてベッドから抜け出せない日もあって。立派な場所に登壇して研究を発表することもできないし、何万人ものフォロワーが居るあの人みたいに瞬時に大きなうねりは生み出せないよ。デモに行けるだけの体力がまだなくて、SNSで表明することが怖くて仕方なくって、全部を放り投げたくなることも。

 

だから、今いるここ(ベッドの中、ダイニングテーブルの端っこ、部屋の隅、コーヒースタンド……)から、考えてみる、調べてみる、関心を持ってみる。スマホひとつで、手のひらの中小さなスペースで、しずやかにでも“できることがある”と思えるのはこんなにもありがたい。

 

表に出ていない、見えていない、明らかになっていないけれど、私なりに、その人なりに考えていて、行動を起こしていることもあるんだよ。ある日は、“沈黙は加担”と言う言葉に重くなりすぎた腰を上げてもらい、パワフルに活動して。ある日は、できないじぶんを責め立てることなく、心のエネルギー補給を。そして、最前でファイティングポーズをとり続けている人たちへの敬意を持ってその手を握り返して、もう一人、また一人と繋いで輪を大きくしていく。そうやって、ともに、一緒に進んでいけたなら。

 

インフルエンサー(広義での)に対して抱いてしまう身勝手な期待だったり、“ちから”を持つ人の力の使い方だったり、活動を休止できる特権を持っていることだったり、発信することではじまることがあるってこと、異なる意見と触れる機会を得ることの貴重さ、社会貢献の実感など、触れたい事柄はまだまだあるのだけれど。今の私が私にしてあげられることとして、末長く健やかにファイトしていくための秘訣として、じぶんに教えてあげたいと思ったので、ここに残してみました。(前提として記したいのは、発信してくれる人たちへの感謝の気持ち。誰かが表明してくれることで学び、知識を深め、じぶんをかえりみることができているから。だから、できるだけ私もどこかの誰かが情報に触れられるきっかけ作りたいと思うし、そのための"発信"は続けられたらと思う。)

 

記憶を記録していくこと、今年はもっとできたらいいな。

 

今、居る、ここから、できるときに、できることを、粛々と

 

だいじょうぶ、私はあなたの味方だよ。

 

むすびに今夜のBGMを↓

open.spotify.com

明日も朝イチでコーヒーを淹れようっと。

 

 

それでは、きょうはここまで——

 

 

(2024.1.22)

 

 

 

 

 

crossroads / わたし今、美瑛にいます

「落ち込むこともあるけれど、私、この町が好きです」

 

映画『魔女の宅急便』のラスト、主人公の魔女・キキは両親に宛てた手紙をこう締めくくる。この一文を綴った時のキキの気持ち、今ならわかるよ。

 

わたしが魔法を使えなくなったのは、いつからだったのだろう。サンタクロースに「魔法をください」と頼んだ幼き頃、その時から心のどこかで、魔法なんて使えっこないって思っていた。

 

飛行機の小さな窓からは青い空と下の方に雲が見える

羽田から旭川へ向かう飛行機。窓の外を覗き込めば、北の広大な大地がそこにあった

 

北海道の真ん中、美瑛に来て一ヶ月が経った。私は今、トマト農家で働いている。友達も親族も、知り合いも誰もいない場所で、全く新しいことに挑戦するということ。知らない場所で、知らない人たちと、知らないことをするということ。

「丘のまちフリーロードパノラマ」緑色の壁に囲まれた空間で、階段を登った先に大きな窓がある。差し込む光はやわらかい。

美瑛駅の線路を挟んだあちらとこちらを繋ぐ「丘のまちフリーロードパノラマ」

昨年、2022年の6月からこれまで、長いお休みをとっていた。仕事をせずに、思う存分に寝たり、陽の光を浴びたり、心の赴くままに遊びに出かけたり、あるいは何もせずに引きこもっていたり。何もしないというよりは、“休む”ということをしていた。

 

お休み期間が一年を迎えようとしていた頃、カラダのそこかしこがむず痒くなるように、内側からしんしんとエネルギーが湧いていることに気がついた。

 

心を削りながら働いていたあの頃に戻りたいとは思わない。でもこのままでいたいとも思っていない。

 

一度立ち止まった場所から再び歩みを進めるには、エネルギーが必要だ。坂道を転がるように毎日を過ごすこととはまた違った種類の出力源が。次の一歩をどちらに踏み出したらいいのか考えあぐねていた。時間ばかりが過ぎる。焦燥感が追ってくる。

 

 

“農業ヘルパー”の文字を見つけた時、「これだ」と思った。求人サイトを見て、すぐに応募した。自分が直感を重んじる性格だと知ったのは、ごくごく最近のこと。

 

知らない場所で、知らない人たちと、知らないことをするということ。不安が全くなかったといったら嘘だけれど、わからない、みえないからこそ踏み出してみたかった。

 

「どうして、美瑛で農業を?」人は、わたしの選択について理由を尋ねる。最もらしい事柄を並べてみる。大自然に囲まれた場所で暮らしてみたい。未経験の仕事をしてみたい。実家を出て一人暮らしをしたいーー。どれもが本当ではあるけれど、“それ”だけじゃない。”それ”の外側、あるいは内側に何があるのか、まだ、わたし自身もよくわかっていない。

 

緑色のトマトが葉がいっぱいの蔓にぶら下がっている

熟れる前のあおいトマト、夕陽に照らされて光っている

美瑛の町は農業ヘルパーさんを毎年募っていて、今年は、約20人もの人々が日本全国津々浦々から集っている。年齢も性別もさまざま。どんな背景を背負い、これまでどう生きて、どう暮らしてきたのか。そして、なぜ美瑛に来るという決断をしたのか。

 

人は聞く。なぜ、その道を選ぶのかと。反対する人がいる。なぜ、その道を行く必要があるのかと。農業を生業とする人がいて、共に働く人がいて。わたしを含むすべての人たちが重ねてきた選択のすべてを、誰もジャッジをすることはできない。どんな理由があろうとも、あるのは“今、ここに居る”と言う事実だけ。地に足をつけ、立っているということだけだ。これまでもこれからも、ぜんぶ、誰かの選択をジャッジすることなどできない。誰にもジャッジなんてさせたくない。

 

岐路に立つとき、わたしはこれまでの道を振り返る癖がある。後方に見えるのは、一本の道だけだ。かつての分岐点はもう見えない。見えないところまで進んで来たんだ。良いとか悪いとか、後悔とかじゃない。

 

今、ここに立ってやっと、かつての選択をジャッジしない自分に出会えた気がする。

晴天の元、舗装された道路の脇には木々が連なっている

美瑛の街をサイクリングした時に通った道

何にでもなれると信じていた。何かになりたいと思っていた。でも今は、素足で踏み入れたこの土地で、そぎ落とされた“わたし”で立っている。肩書きも年齢も関係ないし、名前だって、呼び名さえあればじゅうぶん。そぎ落としたあとに残っているもの。肉付けをしていく作業に没頭していた日々では気づけなかった、“しん”を見つめる。芯、真、新、心、身ーー。

 

 

魔女の宅急便』の劇中で、絵描きのウルスラが絵を描けなくなった過去について語るシーンがある。何を描いても気に入らなくて、ジタバタして、描いて、描いて、描きまくった。それでも、描けなかったら?

 

「描くのをやめる。散歩したり景色を見たり、昼寝したり何もしない。そのうちに急に描きたくなるんだよ」

 

もがいて、うずくまって、また立ち上がって、ジタバタしながら働いた日々。「もうこれ以上は働けない」とボロボロになった心身を休ませた日々。すべてを経て、今ここに立っているじぶん。ちゃんと見つめていたい。ちゃんと、じぶんを見つめていたい。

 

 

この町を去る10月末までの間、ここでわたしが見つめるものは何だろう。知らない場所で、知らない人たちと、知らないことをする。“知らない”尽くしの毎日は、すでに変わろうとしている。

 

 

それでは、きょうはここまでーー

 

 

(2023.7.28)

 

星が死ぬとき、いちばん輝く

わたしが地上での最期を迎えて星(ここで言う星は恒星のこと)になったとして、星にも寿命はあるよな、などと考える。人間よりはうんと、うんと長生きをするのだろうけれど。

 

恒星がその命を終えようとするとき、超新星爆発という大爆発を起こすらしい。わたしはこの言葉を“超”新星だと思っていて、“彗星のごとく現れた”とか、”新たなスター誕生”のような意味だと勝手に解釈していた。どうやら大きな勘違いだったみたいだ。英語だと“supernova”(Oasisの曲「Champagne Supernova」を思い出す。歌詞はともかくとして、階段を下っていくようなコード進行がとても好き)。この爆発をもって、星は全てのエネルギーを放出して消えていく。その瞬間、強く大きく光りを放つ。そして爆発によってかけらとなった星は宇宙へと広がり、次なる星の材料となる。(参考: 星の寿命はいつまでですか?/読むらじる。-NHK

 

なんだか、このブログのタイトルそのものみたいだ。この世界の誰かが生み出した音楽や映画や本、友人や家族の言葉、ありとあらゆる要素を星くずに例えて、それらがわたしの中に集いかたちを変えて再び世界に還ったらいい、わたしが星くずたちのインターセクション=交差点になってみたいと願いを込めて名付けた。当初は超新星のことなど知らなかったけれど、宇宙のそこかしこに散らばる星のかけらが長い時間をかけて集まり、新しい星を誕生させることとぴたりと重なる。

 

わたしがまだ大学生だった頃、大好きな友人とお泊まり会をした。極めて静かな夜、友人は自身の恩師を呼んでくれ、共にささやかな星の観察会を開いた。刺されるような寒さのなか大きな天体望遠鏡を覗き込み、オリオン座の三つ星付近に広がる星雲をながめたりした。先生が仰った。「今、わたしたちが見ている光は数百年、数千年前のものなんです」と。この事実を思い起こすと、いつも時空を歪められたような、宙ぶらりんな気持ちになる。

 

ある日、空から星が消えていることに気づいたとしても、星そのものは遥か昔に死んでいるということ。ごまんとある星の中の一つが消えたとて、ひょっとしたら誰も気づかないかもしれない。それでも、死んだ星が新たな星のみなもととなり、ひいては多くの生命体を構成する元素をも作り出すという事実は、あまりに希望的だ。

 

わたしがエネルギーを燃やし尽くすとき、超新星みたいに大爆発を起こすことはできないかもしれない。それでも、いつかの何かのためになれたらと望んでしまう。時を経て、遠く離れた場所の誰かが、そのちっぽけな明滅をいっときの道標としてくれるならーー。そんな夢を見ながら、おやすみなさい。

 

 

それでは、きょうはここまでーー

 

 

(2023.3.10)

 

きっと祈りにも似ている

人が亡くなると星になるという話を最初にしてくれたのは母だった。昨日の日記を書きながら改めて考えを巡らせていたら、ふと思い出すものがあった。坂本龍一さんが月刊文芸誌『新潮』で連載されていた「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」のことだった。2022年7月号からはじまり、つい2ヶ月ほど前、2023年2月号で完結した。わたしの手元には、メルカリで購入した連載初回の掲載号と、近所の書店で予約して手に入れた最終回が掲載された号だけ。間がすっぽり抜けてしまっているのは、連載の存在を知った頃にはもう終了間近だったからで、今となっては、人気の高さゆえ中古でもなかなか手に入らない。電子版もないし、いつか図書館かブックオフかメルカリかで探し出して、坂本さんの言葉に出会ってみたい。

 

かろうじて我が家に迎えることができた二冊のうちの一冊、『新潮』2022年7月号の連載第一回で、坂本さんが"死後の世界"についてお話しされる場面がある。

 

わたしはこの章がとてもお気に入りで、iPhoneのボイスメモにじぶんの声で朗読して保存している。それを時折、寝しなに真っ暗な部屋のベッドの上で聞く。ちょっと変な趣味かもしれないけれど、本を読むためのライトやスマホの液晶画面は睡眠前には眩しすぎるし、明日の朝の目覚めを少しでもよくするには、この方法がちょうどいい。なにより、声に出して読み上げること、そしてそれを聞くという行為に大きな安らぎを感じる。心震わす言葉に出会うたび、ちまちまとコレクションしてはひとりでに癒される、自分だけの遊びだ。

 

坂本さんがこの連載をスタートしたのには、ご自身のガンの再発が大きく関わっているようで、残された時間の中で人生を振り返っておこうという考えのもと、まっすぐな言葉で赤裸々に語られている。(参考: 月刊文芸誌「新潮」で、坂本龍一氏による自伝 「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」連載開始

 

坂本さんは、天文学者であり作家でもあるカール・セーガン、エコロジストとしても知られらるブラジルの作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンの名前を挙げながら、"死んだあとには星になる"という幻想的な話に触れつつ、連載の第一回をこう結んだ。

 

セーガンやジョビンの想像力、そして死んだらお星様になるという素朴なファンタジーを、いまのぼくは決して否定したくありません。果たして死後の世界があるかどうかはわからないけれど、ぼんやりとそんなことを考えています。

 

引用元: 坂本龍一「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」第1回「ガンと生きる」/『新潮』2022年7月号掲載

 

いまのわたしが死後の世界について話すとき、心の底から信じているかと問われたら、曖昧な返事しかできないと思う。そもそも、確信めいた話なんて誰にだってできっこない。それでも、わたしが科学的根拠のない空想を受け入れてみる、あるいは否定しないでみることは、いつかのどこかでじぶん自身を救済し得るって考えているからだろう。きっとこれは、祈りにも似ている。

 

書きたいことがいっぱいあるのだけれど、なかなかまとまらず、もどかしい。頭の中はいつだってぐるぐる。

おやすみなさい、木曜日。

 

 

それでは、きょうはここまでーー

 

 

(2023.3.9)